~劇団竹蜻蛉の面々が綴る、一言だったり公演紹介だったりする雑記帳~
|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
打ち上げでヘロヘロになっていました。衣装のこまつです。
昨日で第157回新入生歓迎公演は千秋楽となりました。
来場してくださった皆様へ。ありがとうございます。
公演に協力してくださった方々へ。感謝してもしきれません。
そしてなかまたちへ。お疲れ様でしたっ。
明日からまた頑張りましょう!(>∀<)ノシ
さて、終わったからこそ書ける裏話をひとつ。
今回の芝居の象徴ともいえる柳さんの仮面の話です。
本番ではゴージャスな金色でしたが、途中までは別の仮面を使う予定でした。演出さん一押しのクールな銀色だったのです。
では、なぜ変更されたのか。それは……
Comment
ほんとに
見事なわれっぷりでした。
撮影中、屋外で華麗にまう仮面の男。
響き渡る悲鳴(あ、決して一般人からのではありません)
→まっぷたつ。
今回一番のクラッシャーは仮面の男ですかね。
彼の逸話は数多いですね。仮面の伝説です。
みなさんほんとにお疲れさまでした。
次は反省会ですね。
ゆっくり休んでまた次につなげていくことが大切だと思います!
新歓だと例年通り打ち上がらないものなので(笑)落ち着いたらぜひ第二次打ち上げでもやりましょー。
あ。こまっちゃんのヘロヘロぶりはかわいかったです。
撮影中、屋外で華麗にまう仮面の男。
響き渡る悲鳴(あ、決して一般人からのではありません)
→まっぷたつ。
今回一番のクラッシャーは仮面の男ですかね。
彼の逸話は数多いですね。仮面の伝説です。
みなさんほんとにお疲れさまでした。
次は反省会ですね。
ゆっくり休んでまた次につなげていくことが大切だと思います!
新歓だと例年通り打ち上がらないものなので(笑)落ち着いたらぜひ第二次打ち上げでもやりましょー。
あ。こまっちゃんのヘロヘロぶりはかわいかったです。
無題
形あるものはいつか必ず壊れる。
人間も例外ではない。
死は必然であるのに何故人は死について恐怖の感情を抱くのか。
死は怖くないなどと言っている人も、心のどこかでは怖がっている。
殴られそうになれば防御する。それはつまり自分が傷つきたくないという証拠だ。
本能的に人は壊れることを望んでいないのだ。
壊れたマスケラは壊れることを恐れていたかはわからないが、少なくともマスケラをつくった人間はマスケラが壊れることを望んではいなかっただろう。
するとこの世のものはなんでも壊れることに抗いながら生きているように思われるかもしれない。
しかし我々人間の体内には自殺を望む細胞も存在する。次の新しい細胞へのバトンタッチである。
こうしたミクロな次元では例外もあるかもしれないが、実は壊れたマスケラも舞台を成功させるための役割を練習の中で果たしていたのではないだろうか。
そう考えれば、壊れて犠牲となったマスケラも、もしくはそれをつくった人も浮かばれるだろう。
この世には自己犠牲という言葉があるが、それは舞台においても考えなければならない概念である。
よい役者とは何か。ただ演技が上手い役者のことをいうのだろうか。
私は少なくともそれだけがよい役者だとは思わない。芝居は役者や裏方の力全ての属性の集合によりなりたっている。
つまり喩えよい役者がいてもよい裏方がいなければ芝居全体として考えるならば、だめである。
では全ての役者や裏方が良ければそれで良い芝居になるかと言えばまあそうだろう。
しかし、その中には少なからず自己犠牲が存在することを認識しなければならない。
演出もしくは脚本を描いた人間の意図として、際立たせたいキャラ、脇役のキャラなどが必ず存在するだろう。
これは当然であるが、実は真面目な役者であるほどこのことを忘れやすい。
如何に自分の演技を高めていくか、それだけを求めていたのでは、役者間に存在するバランスに目がいかなくなりがちになる。
結果、本来メインのキャラを際立たせる役割のはずの脇役キャラがメインキャラよりも際立ってしまい、メインキャラの印象が薄れることで脚本全体にのバランスが崩れてしまうことさえある。
もちろん役者にとっては自分の演技を高めていくことにまず目が行ってしまうだろう。これは問題ないし、そうあるべきである。
では上記した芝居のバランスを役者自体意識する必要があるのかというと、あるにはある。しかし、芝居のバランスというのはつまり客の目線で見た次元の話である。
客の目線を一番持っているのは誰かと言えば、演出である。
芝居の練習が本番に近づくにつれ、役者の演技のクオリティが高くなってきたと感じたならば、芝居をマクロな視点で観察し、意図した役者のバランスに近づくような演出をするべきである。
今回の芝居においては、様々な濃いキャラが登場したが、客として見ている中で、誰に感情移入すべきか、という問題が頭の中に浮かんだ。
いや、「感情移入すべき」という表現には語弊がある…
感情移入は本来「すべき」ものではなく、自然と「そうなっている」という風にいうべきである…
話が反れたが、今回の芝居では、誰に感情移入をさせたかったのかを考えた場合に、若干の疑問が残る気がする。
勿論感情移入は複数のキャラに求めることは可能だし、ラストシーンで全てのキャラに感情移入させるような演出-いわゆる大円団というものだろうか-はよく使う手法であるし、今回もその方向に近いものを感じた。
推測に過ぎないので定かではないが、特に今回の話で重視したかったのは、I奥くんとM田さんがN田さんの力に頼るだけでなく、それを乗り越え自分達の力で成長していくといったことだと思われる(違ったらサーセン)。
結果として、これが十分に伝わったかと言えば、満点ではないように思われる。
個人的な見解だが、井Oくんと森Tさんが自分達の力で乗り越えていくという結果にいたるまでの因果関係が若干弱いように感じた。そのため、最終的に焦点がしっかりと定まっていなかったように思えた。
このように芝居全体のバランスを考えることは非常に重要ではあるのだが、簡単にできることではないし、むしろ演出にとって一番難しい作業だろう。
たとえばもし「良かった役者」の欄に自分の名前が多く書かれていたとする。役者にとってはどうだろう。これほどない幸せである。しかし、演出脚本の人からするとどうだろうか。究極的に一番名前が書かれて欲しいのは主人公なのではないだろうか。
客が「よい役者」を選ぶ際の基準は、いかに印象的であったかということに置き換えることができるだろう。
そうすると、印象的であったということは、奇抜な演技をしていたとか小ネタが効いていたとか演技がうまかったとかそういったことが選ぶ際の比重の多くを占めるだろう。
すると「よい役者」において演出の意図していた「主要キャラ」よりもいわゆる脇役キャラのほうが得票率が高くなるのである。
これが「主役はアンケートで良かった役者に選ばれにくい」と言われる所以であろう。
しかし、主要キャラがそもそも奇抜で面白みのあるキャラである場合、得票率が高くなるとも言える。
事実、私が新人公演のとき、長Tさんにさんざん、さんざんなことをやらされ、得票率は主人公でありながらも割と高かった。
これは明らかにさんざんな行動の結果であると思われる。
このように「良かった役者」のアンケートを考えてみても、実は演出にとっての「よい役者」がアンケートにおける「よい役者」と重なることは必ずしも言えないのである。
したがって、演出は芝居のバランスを考えながら、どの役者にいかに自己犠牲させるかを考えるべきである(自己犠牲「させる」と表現している時点で「自己」犠牲ではないのだが笑)。
人間も例外ではない。
死は必然であるのに何故人は死について恐怖の感情を抱くのか。
死は怖くないなどと言っている人も、心のどこかでは怖がっている。
殴られそうになれば防御する。それはつまり自分が傷つきたくないという証拠だ。
本能的に人は壊れることを望んでいないのだ。
壊れたマスケラは壊れることを恐れていたかはわからないが、少なくともマスケラをつくった人間はマスケラが壊れることを望んではいなかっただろう。
するとこの世のものはなんでも壊れることに抗いながら生きているように思われるかもしれない。
しかし我々人間の体内には自殺を望む細胞も存在する。次の新しい細胞へのバトンタッチである。
こうしたミクロな次元では例外もあるかもしれないが、実は壊れたマスケラも舞台を成功させるための役割を練習の中で果たしていたのではないだろうか。
そう考えれば、壊れて犠牲となったマスケラも、もしくはそれをつくった人も浮かばれるだろう。
この世には自己犠牲という言葉があるが、それは舞台においても考えなければならない概念である。
よい役者とは何か。ただ演技が上手い役者のことをいうのだろうか。
私は少なくともそれだけがよい役者だとは思わない。芝居は役者や裏方の力全ての属性の集合によりなりたっている。
つまり喩えよい役者がいてもよい裏方がいなければ芝居全体として考えるならば、だめである。
では全ての役者や裏方が良ければそれで良い芝居になるかと言えばまあそうだろう。
しかし、その中には少なからず自己犠牲が存在することを認識しなければならない。
演出もしくは脚本を描いた人間の意図として、際立たせたいキャラ、脇役のキャラなどが必ず存在するだろう。
これは当然であるが、実は真面目な役者であるほどこのことを忘れやすい。
如何に自分の演技を高めていくか、それだけを求めていたのでは、役者間に存在するバランスに目がいかなくなりがちになる。
結果、本来メインのキャラを際立たせる役割のはずの脇役キャラがメインキャラよりも際立ってしまい、メインキャラの印象が薄れることで脚本全体にのバランスが崩れてしまうことさえある。
もちろん役者にとっては自分の演技を高めていくことにまず目が行ってしまうだろう。これは問題ないし、そうあるべきである。
では上記した芝居のバランスを役者自体意識する必要があるのかというと、あるにはある。しかし、芝居のバランスというのはつまり客の目線で見た次元の話である。
客の目線を一番持っているのは誰かと言えば、演出である。
芝居の練習が本番に近づくにつれ、役者の演技のクオリティが高くなってきたと感じたならば、芝居をマクロな視点で観察し、意図した役者のバランスに近づくような演出をするべきである。
今回の芝居においては、様々な濃いキャラが登場したが、客として見ている中で、誰に感情移入すべきか、という問題が頭の中に浮かんだ。
いや、「感情移入すべき」という表現には語弊がある…
感情移入は本来「すべき」ものではなく、自然と「そうなっている」という風にいうべきである…
話が反れたが、今回の芝居では、誰に感情移入をさせたかったのかを考えた場合に、若干の疑問が残る気がする。
勿論感情移入は複数のキャラに求めることは可能だし、ラストシーンで全てのキャラに感情移入させるような演出-いわゆる大円団というものだろうか-はよく使う手法であるし、今回もその方向に近いものを感じた。
推測に過ぎないので定かではないが、特に今回の話で重視したかったのは、I奥くんとM田さんがN田さんの力に頼るだけでなく、それを乗り越え自分達の力で成長していくといったことだと思われる(違ったらサーセン)。
結果として、これが十分に伝わったかと言えば、満点ではないように思われる。
個人的な見解だが、井Oくんと森Tさんが自分達の力で乗り越えていくという結果にいたるまでの因果関係が若干弱いように感じた。そのため、最終的に焦点がしっかりと定まっていなかったように思えた。
このように芝居全体のバランスを考えることは非常に重要ではあるのだが、簡単にできることではないし、むしろ演出にとって一番難しい作業だろう。
たとえばもし「良かった役者」の欄に自分の名前が多く書かれていたとする。役者にとってはどうだろう。これほどない幸せである。しかし、演出脚本の人からするとどうだろうか。究極的に一番名前が書かれて欲しいのは主人公なのではないだろうか。
客が「よい役者」を選ぶ際の基準は、いかに印象的であったかということに置き換えることができるだろう。
そうすると、印象的であったということは、奇抜な演技をしていたとか小ネタが効いていたとか演技がうまかったとかそういったことが選ぶ際の比重の多くを占めるだろう。
すると「よい役者」において演出の意図していた「主要キャラ」よりもいわゆる脇役キャラのほうが得票率が高くなるのである。
これが「主役はアンケートで良かった役者に選ばれにくい」と言われる所以であろう。
しかし、主要キャラがそもそも奇抜で面白みのあるキャラである場合、得票率が高くなるとも言える。
事実、私が新人公演のとき、長Tさんにさんざん、さんざんなことをやらされ、得票率は主人公でありながらも割と高かった。
これは明らかにさんざんな行動の結果であると思われる。
このように「良かった役者」のアンケートを考えてみても、実は演出にとっての「よい役者」がアンケートにおける「よい役者」と重なることは必ずしも言えないのである。
したがって、演出は芝居のバランスを考えながら、どの役者にいかに自己犠牲させるかを考えるべきである(自己犠牲「させる」と表現している時点で「自己」犠牲ではないのだが笑)。
2 Comment(s)
カテゴリー
最新記事
(07/16)
(06/12)
(06/02)
(05/21)
(05/19)
ブログ内検索